この記事は、文化放送PodcastQRで毎週月曜日に配信されている「【中学受験】おおたとしまさの『校長室訪問』」の内容を、確認クイズ付きでWeb再録したものです。
配信内容を書き起こすとともに、その一部を「穴埋め(ブルダウン式の三択)」クイズにしております。
番組を聴きながら穴埋めを完成させて、楽しみながら学校への理解を深めていただければ幸いです。
今回お届けするのは、
聖学院中学校・高等学校(東京都 北区)の校長、伊藤 大輔先生のお話です。
番組の聴取は下記より↓↓
【大切なお願い】
※このWeb再録は、「【中学受験】おおたとしまさの『校長室訪問』」をより楽しんでいただくための取り組みとして、文化放送様の許諾をいただいて実施している特別企画です。
クイズを楽しんでいただいたあとは、ぜひページ末尾のアンケートフォームから、番組のご感想やリクエストなどをお送りください。
この企画を続けていくことができるかは皆さまのお力にかかっております。ご協力、どうぞお願いいたします!
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Topics1:学校の概要
個性的でのんびりした生徒さんが育つ理由は…
おおたとしまさ氏(以下、おおた):
それでは聖学院中学校・高等学校の校長、伊藤 大輔先生にお話をうかがっていきましょう。伊藤先生、よろしくお願いします。
聖学院中学校・高等学校
伊藤 大輔 校長先生(以下、伊藤):
よろしくお願いします。
おおた:
学校のロケーション的にはどんな場所にございますでしょうか?周りの環境ですとか、駅ですとかそういったところをおうかがいしたいと思います。
伊藤:
正確には、住所は(東京都)北区中里というところにあります。最寄りの駅は駒込駅と上中里駅です。駒込、上中里、どちらの駅の近くにも庭園があります。六義園と古河庭園。大きなお庭があるのがこの近辺の風景になっています。
なんと申しましょうか、明治よりも後に街ができてきた歴史があるところです。徳川さんが庭園を作ったのが六義園ですよね。古河庭園(が作られたの)は明治の中頃だと記されていますけれども、そこもそれまでは畑とかそういったところで何もなかったところだと聞いております。
ですから、今の駒込駅周辺の雰囲気というのは、そんな大きな商業施設とか何かそういったものではなく一人ひとりが一生懸命自分の家を作って建ててというようなことが集まって。本当に、言ってみれば「町」というところが色濃く残っているところです。ご商売をしているところもあれば、自分たちだけでお住まいになっているところも。そういった個性豊かなと申しましょうか、そういうのが私たちが過ごしている町になっています。
おおた:
学校の敷地のお隣には女子校があって、小学校も隣接していましたよね。
伊藤:
はい、そうです。女子聖学院、聖学院小学校、私どもの聖学院中高、3つの学校が聖学院としてひとつのグループになっております。
おおた:
そういったロケーションにある聖学院中学校・高等学校さんですが、どんな雰囲気の学校なのでしょうか?
伊藤:
まさに今、駒込の話をちょっとしましたけれども、うちの生徒たちも良くいうと個性的です。のんびり育っているというのがうちの学校のひとつの特徴になっているというふうに思います。
おおた:
のんびり育っている。
伊藤:
「問いなさい」ということを私たちは大事にしているんですね。答えと問いの「問う」を。先生たちが問うというと彼ら(生徒)は「答える」とそういう反応になってしまいますけれども、(そうではなくて)自分で考えて自分で答えるんだよということをしていこう、考えてもらいたいというのが私たちの大きな願いでもありますので。
時間がかかることは承知はしているんですけれども、すぐに答えを見つける、わかった――世の中はそんな簡単なものではないぞと。答えのその先にもっともっと問いがいっぱいあるんだ、それは自分で見つけなくちゃいけないんだからそれを訓練しようねと。
英単語を覚えるとかそういったことは既にできることですけれども、問いの設定といったことは難しいことですから、とにかく私たちもそんなに時間をすぐにかけてインスタント的に人間を作るのではなくじっくり作っていきましょうというふうなことで。その結果、個性的なのんびりとした連中がたくさんいるのがうちの学校です。
おおた:
なるほど。個性的でのんびり育っているというのは、聖学院のそういう「問いなさい」という環境の中でのんびり育てられているという意味なのですね。
伊藤:
そうですね。
おおた:
その問いなさいというのは、自らに問い、そして自ら考えてその答えを求めていくわけですけれども、答えらしきものに手が届いたかなと思うと途端にそれまた複数の問いに分かれていったりしてしまって、どんどんどんどん問いが増えていく、むしろ(というような)そういうことがあろうかと思いますけれども。
伊藤:
それを体験してほしいんですよね。
おおた:
そういうことですよね。あれどこまでいったら…だけどやっぱり新しい問いに向かって進んでいかなければと…そういう躍動感ですよね。
伊藤:
そうなんです。(それによって)世界のサイズというものをわかるきっかけになるんじゃないかと思っています。それは問いからだよ、と私たちはそういう入り口から子供たちと一緒に入っていこうというふうに考えているところです。
おおた:
他に学校の雰囲気ですとか、最近あった象徴的な出来事ですとかエピソードはございますか?
伊藤:
学校行事、課外に出かけていくのを大事にしているんです。タイに行くとか糸魚川に行くとか。ちょっと危険なこと―――危険というとちょっと大げさなのですけれども、(1)にならないようなプログラムを大事にしておりますので、そういったところから何か自分たちの持っていた答えというものが単に頭の中で作った現実だったなというふうな発見をしてもらいたいということが学校の流れの中でずっとあります。最近何か起こったということでは無いのですが、そういうことを繰り返しているところです。
<確認クイズ>
(1)に当てはまる言葉は何でしょう?
おおた:
そういった課外活動というのは、単発のものではなく生徒さん達のだいたいの発達というか、特に内面的な成長に合わせてすごく体系的に設計されているんですよね。
伊藤:
ええ。まあ、これは結果論です。最初は教職員たちも「問い」から入っていますから。(考えたことを)ある学年にぶつけて見たらそれがうまくいったというようなことで、これがつながっていくねということで今の6年間のプログラムができあがっていますけれども。これも、なんと申しましょうか、完成形ではないと思いながらやっております。
おおた:
なるほど。試行錯誤の賜物として、今の形になってきていて。そこに意味付けを後からすればこうこうこういうようなことだよねと言えるけれども、でもそこで完成形のプログラムではなく、常に試行錯誤を繰り返しながら今後もそれが変化していくだろうと。
伊藤:
そうですね。
おおた:
いわば生きているプログラムだということですね。
伊藤:
ですから、今でも教職員のうちの誰かがどこかで新しいことを企んでいるかもしれません(笑)。
おおた:
そうですよね!そうじゃなければ楽しくないですしね(笑)。
伊藤:
はい(笑)。
Topics2:沿革
聖人とは「本当の自分を見つけている人」
おおた:
のんびりと言いながら、でもいろんな体験ができる学校の雰囲気が伝わってきたわけなんですけれども、そのような学校の姿はどのような歴史の中から、あるいはどういった教育理念に基づいて形作られてきたものなのか、歴史や理念の部分をうかがっていきたいなと思います。
伊藤:
ご存知のように…という言い方で良いかと思うんですけれども、聖学院はキリスト教を母体にした学校なんですね。ですから、歴史的に言うと宣教師とそれに共鳴する者たちが作った学校になります。
ただ建学の時から――多少はキリスト教の布教ということがまったくなかったわけではありませんけれども、むしろキリスト教というものが入り口、もっと言えば宗教ですよね、宗教を入り口にして人間の思考というものを深めていきたいというのが、私たち聖学院が求めてきたことです。
聖学院という名称自体が「聖学」の「院」というふうになっているのが、初代の石川角次郎という先生が伝えた言葉なんですけれども。
おおた:
「聖学」の「院」。
伊藤:
ご存知のように…という言い方で良いかと思うんですけれども、聖学院はキリスト教を母体にした学校なんですね。ですから、歴史的に言うと宣教師とそれに共鳴する者たちが作った学校になります。
聖学という言葉自体は儒教か何かの言葉なので日本に入るときに造語で作られた言葉だと思うのですが、「聖人になる」というのが聖学院が目指していることです。
おおた:
「聖人」になる。それはまたすごく、大きな…大きく出ましたね(笑)。
伊藤:
これがですね、私たちのスクールモットーで「オンリーワン」ということを掲げておりますけれども、「聖人」と「オンリーワン」は、実は同じ意味合いの言葉になっているつもりなんです。聖人と申しますと、清く正しい人、立派な人というイメージがつくと思いますが、聖学院の始まりから、聖人というのは、簡単に言ってしまうと「本当の自分を見つけている人」という意味なんです。
おおた:
本当の自分。
伊藤:
これがですね、私たちのスクールモットーで「オンリーワン」ということを掲げておりますけれども、「聖人」と「オンリーワン」は、実は同じ意味合いの言葉になっているつもりなんです。聖人と申しますと、清く正しい人、立派な人というイメージがつくと思いますが、聖学院の始まりから、聖人というのは、簡単に言ってしまうと「本当の自分を見つけている人」という意味なんです。
逆に言ってしまうと、偽物の自分というものが世の中にはあって。偽物って何かと言うと、いろんなものが張り付いちゃって何かに乗っ取られている。そして自分の心がどこにあるのか、自分の体から抜け出てどこかに(自分の心が)奪われてしまっているということで。それは本当じゃないよねと。自分の心を自分の体の中に戻しましょうと。そういうことが絶えずできる人間になりましょうと。それが聖人ですよと。
聖書の中に登場してくる人物というのは、みんなと言っていいと思いますけれども、皆、本当はそうなんです。なんか立派なことをやったり奇跡をやったりしていますけれども、彼らを共通して見てみると、心の落としどころはどこなの?それは自分のところにあるよねと。
おおた:
心の落としどころが自分にある…
伊藤:
そうです。その末に迫害されたり何かもめごとを起こしたりするけれども、これが私なんだからしょうがないんじゃないの?というところが、たぶん、聖書中の「聖人」で。
おおた:
なるほど…!
伊藤:
迫害をされよということではありませんけれども、自分のことを見失うなよと。人を恐れて、人の顔色をうかがって私というものを失っていくということは、それは寂しい生き方にしかならないからねと。自分をいつでも取り戻しながら進みなさいというのが本校のスクールモットーですね。
おおた:
聖人君子なんて言いますから「聖人」と言われてしまうとちょっとそんなことをと思ってしまいますが、でもその意味を解きほどいていくと「本当の自分を見つけている人」だと。
では「本当でない」とは何であろうかというと、たとえば社会の固定観念や損得感情だったり、外の価値観や物差しでしか自分を見ることができない、といったことですね。どうしても社会生活を営んでいるとそうなりがちなんだけれども、そうではないゆるぎなき心の落としどころが自分にあると。そういう感覚を持った人間を目指しなさいよという意味合いなわけですね。
伊藤:
そうなんですね。
おおた:
今お話を聞いていて「心の落としどころは自分にある」という表現からちょっと連想したのは、自らをよしとする、自由という概念も本来的にはそういうことですよね?
伊藤:
そうです、そうです。まさにその「自由」というところは、私たちも大事にしているところで。
逆に言ってしまいますと、自由でなければならないと考えるとそれは不自由になっちゃうじゃないですか。「2日前の私に(今の)私がとらわれてしまって”これが私”と思い込んでいない?今日の私は本当にそれ?」と(自分に問いかける)。そういうことを言うと(それは)ずーっと「問い」なんですよ。
おおた:
先ほどの話とつながりますよね。
伊藤:
そういう訓練を、時間がかかるんですけれども(やっています)。教職員もなかなかそこがうまい具合に伝わらないねという思いの中におりますし、自分たち自身もいつでも問うていますよね。
おおた:
問い続ける人であれ、というメッセージを受け取れるかなとお話を聞いていて感じました。ありがとうござじます。すごく広い視野というか深い思考というか、どちらもがある教育だということが伝わってきました。
伊藤:
恐れ入ります、ありがとうございます。
おおた:
歴史的には学校が作られたのがいつぐらいなんでしたっけ。神学校が。
伊藤:
1903年ですね。それがスタートです。
おおた:
そしてそのあとに中学校、旧制の中学ができたのが3年後の1906年。ですから120年近い、神学校の設立からするとちょうど120周年。
伊藤:
はい。今年がその年になります。
Topics3:保護者様へのアドバイス
自分の心に貼りついているものをそぎ落す勇気を
おおた:
歴史のある、そしてすごく深くて広い理念をお持ちの学校ということなんですけれども、そんな聖学院中高さん、中高に限らずのお話をしていただいたかと思いますが、聖学院の教育のエッセンスをなにか一般のご家庭でも取り入れるヒントとか子育てのアドバイスをいただければと思いますがいかがでしょうか。
伊藤:
そうですね…すごく難しい質問だと思って今、聞いていたのですが、私たちの学校から発信できることとしては、自分の心に貼りついているものがいっぱいあるよということに気が付いて欲しい、そしてそれをそぎ落とす勇気を持って欲しいと。
私たちの学校で一番最後に出てくるのは、たぶん、家族だと思っているんです。自分の心に貼りついてしまっているもの。愛する大事な家族ではあるのですが、それがもしかしたら「私自身」を見えなくさせてしまっている(かもしれない)。
家族と仲良しになるのはもちろん大事なんです。大事なんですけれども、「作られた私」が「作られた家族」と一緒に仲良しになるというのは(どうなのか)。本当に、家族をそぎ落とす時に、少しのまさつや葛藤もあると思うのですが、それを乗り越えてこそ初めて成長だと思いますし、本当の家族になっていくと思っていますので、子どもたち、生徒たちには「その時が来たら恐れずに自分の心を取り戻す勇気を持ちなさい」というふうには伝えています。
それは子どもがする仕事で。ご両親、ご家庭の大人たちは、自分の心に何か貼りついていないか、あるいは子どもたちに――自分の(お子さんを)愛するという気持ちはとても大事なんですけれども、(それがゆえに)お子さんの心になにか色々なものをくっつけてしまっているようなことはありませんか?ということを、それこそ問いながら(お子さんの)教育をしていただければと思います。
おおた:
すごく深くて重いお話を今、いただいたと思います。
まず、社会生活を営んでいる親御さんたち、大人自身がすごく「貼りついて」しまっているものがどうしてもたくさんある中で子育てをしていると、その「貼りついて」いるものを通して子どもを見てしまって、同じものを貼り付けてしまいたくなってしまったりとか。「あなたのため」と思いながら貼り付けてしまったり、といったことが得てして起こりますものね。
伊藤:
ええ、そう思います。自分たちの経験からもそう思いますから…。
おおた:
本当ですよね。そこで、いざという時には貼りついているものをそぎ落とす勇気も大切だよというメッセージを学校としては生徒さんたちに伝えていて。ある時、これが自分にとってタイミングだなと思った生徒さんたちは、少年から青年へと一歩を踏み出す。それは親からしてみるとぎょっとする瞬間であったりもするわけですよね。
伊藤:
そうだと思います。
おおた:
だけれども、あ、そうかと。この子はそぎ落そうとしているんだなと。同じものを自分たちも無自覚に貼り付けてしまったままだったなと自覚をするきっかけに、大人・親にとってもそういった機会になることって。
伊藤:
本当にそれが(できれば)理想的ですけれども。なかなかそうはいかないなと思いつつも。
おおた:
そうですね。言うは易しでなかなかそうもいかないでしょうが、でもそれがやはり、思春期の子育ての葛藤の本質的な構造なんでしょうね。
伊藤:
そうだと思います。はがすのは大人になってからかもしれませんしね。いつになるかわかりませんけれども。
おおた:
それぐらいの気持ちで。何か貼りついているぞ、と違和感を抱えながら生きて行くのも人生かもしれませんしね。
伊藤:
そう思っています。ですから、時間をかけてのんびりと。6年で完成形とは思っていませんので。
おおた:
本当ですね。素晴らしいです。(本日のお話は)「聖人」から始まってお?と思いましたけれども(笑)、最後に救われるというかほっとできる、そんなアドバイスをいただけたと思っています。ありがとうございました。
校長室訪問、今回は聖学院中学校・高等学校の校長、伊藤大輔先生にお話をうかがいました。伊藤先生、ありがとうございました。
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